2011年06月29日

【ネット社会】脳を可視化し合う楽しさ

Facebookを使い始めて半年少々。正直、ココで何ができるのか、自分にとってどんなインパクトがあるのか、実験の気分で楽しんでいる。自分がどうなるか、周りの友人がどう変化するか。

■第1フェーズから第2フェーズへ

最初は実名をキーにすることで、今まで何十年も連絡が取れなかった友人と「つながる」という奇跡を味わった(第1フェーズ)。ただ、本当の面白さはその先にあった。

その後、使っていくうちに、「お互いが脳を可視化し合うことで心の距離が縮まる楽しさ」(第2フェーズ)に気づく。現在、第2フェーズの真っただ中。

■第2フェーズはお互いに「脳を可視化する」こと

「脳を可視化する」とは、自分の思考をプッシュすること。ブログを書いたりTwitterでつぶやいたりすること。Facebookで言えば、投稿して友人のニュースフィードに流すこと。自分の考えを文字や画像、動画などを投稿したりコメントをつけたりすることね。

特に面白いと感じたのは、日頃そういう「脳の可視化」をしていない人まで巻き込み始めたこと。

ブログや日記などをネット上でやったことがある人はわかると思うのだけど、そういうたぐいものが「できる人、やりたい人」と「できない人、やりたくない人」に分かれると思うのね。

それが、第2フェーズに突入し始めると「できない人、やりたくない人」までもが、「私も私も!」って投稿し始めるのね。その雰囲気が他の人へどんどん波及していく感じ。

そして、やってみると、気づくのね。「脳を可視化し合えばし合うほど、お互いのことを立体的に認識できて楽しい」と。「長い付き合いだったけど、お前、こんな趣味もあったんだな、知らなかったよ」みたいなことの連続。

人間には、「知らないことを知りたい」という欲が潜在的にあると思うのだけど、それが友人であればなおさらってことなんだろうね。

■それはすべてFacebookの仕様

「脳を可視化したい」とその気にさせたのはFacebookの仕様であり、また、そのような友人の行動が透けて見えてくるのもFacebookの仕様。マジで面白いね。

追伸:
ただし、この状況を作り出すのには前提がある。それは、Facebookでつなげる友人を「どんな側面の自分もみせられる友人」に限定すること。自分を立体的に見せたくない人もいるでしょう?例えば、私の場合は、会社関係の人には「自分における会社の顔」だけしか見せたくない。仕事着と部屋着を分けているように。会社に「部屋着では出かけない」し、家では「部屋着だからくつろげる」というもの。全部、つなげてしまったら、家でもリラックスできないよ。
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2011年06月19日

【時事】妻の意識調査がクソな件

妻の意識調査:4割が自分の夫を“イケダン”と評価 - 毎日jp(毎日新聞)

お下品な「クソ」などという言葉は使いたくなかったのですが、失礼。どうしても他に言葉が思いつかなくて。

「イクメン」育児を楽しめるカッコイイ男
「イケダン」仕事をバリバリにこなしながら妻や家庭を大切にするカッコイイ旦那

だそうですよ。このネーミングを聞いたときも、クソだと思ったね。どうでもいいよ、ってつぶやいたよ。そしてこの記事にのっている妻の意識調査もクソ。男性は読んだ後、気分が悪くなる可能性高い(笑)

イクメンは、女性誌の造語らしいね。そして、このイケダン?日産のキャンペーンで、広告代理店が考えたのでしょ?

ぜんぜん、実態と合ってないじゃん。

こういう話って、その家庭の中でクローズする話じゃん?誰かと比較する意味が全く理解できませんけど、俺、おかしいかな?

お互いを思い、思われていればそれでいいんじゃないの?育児、家事は二人で決めた分担。ただ、それだけ。

育児や家事を、当たり前のようにできる人は当たり前のようにやっているだけ。やれない人は、こんなキャンペーンをはったところで、何にも変わりませんよ。ま、商業的にやっているだけだから、こういう「はやり」を作っている人達は、意識が変わっても変わらなくても、どうでもいいことなんでしょうけどね。要は「金」ですわ。

本当に仕事に育児に家事を必死にやっている男は、自分がやっていることをベラベラ口には出さない。それが男。そんなコジャレた服を買いに行く時間もない。仕事を死ぬほどバリバリやっていたら、疲れきった顔もする。カッコ良さって、その背中じゃん?

何この「韓流スター」か「少女マンガ」みたいな、イメージは。

「仕事をバリバリにこなしながら妻や家庭を大切にするカッコイイ旦那」(イケダン)が本当にいたら、職場のOL女子達も同じように大切にするためモテモテだろうな。「イケダンを対象とした調査によると、浮気している人は70%を超える」とか、そういう実態に合った数字を出せよ。間違いない。

何か疲れますわ。私もこういう記事は、普段は無視するんだけど、今日はがまんできずに一言、言いたかったね。よその家(うち)の事は、ほっといてくれ、と。

以上。

□関連リンク
イケダンJAPAN
会社員のブログ イケダン(笑)
posted by Sakak at 22:31| Comment(5) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月12日

【音楽】カバー曲はアリかナシか「僕が僕であるために/尾崎豊」

誤解を恐れずに言うと、邦楽ポップシーンにおける昨今のカバー曲ブーム?には冷めた印象しか持っていなかった。

オリジナルアルバムが売れないから?オリジナル曲を作れないから?昔の曲には、みなが聴き、誰でも知っている曲があったから?その曲を使えば、そこそこ売れる見込みがあるから?

私の思いは、こう。どうやっても、オリジナルは超えられない。歌唱力のある人が歌えば、楽曲が良ければ、それなりにまとまるのは当たり前。挙句の果てに、一級品の曲ばかりを集めたカバーアルバムを出されたら、売れないわけがない。なんかズルイな、と。

ただ、最近、全部ダメ、という気持ちが少し変わってきて。アーティストの声や、歌に耳を傾けてみようと。全てのアーティストがそうだ、とは言わないけれど、なかには、曲の意図を汲みとって、とても丁寧に歌っている人もいたことを知った。

カバー曲を歌っている人だって、オリジナルを越えようと思っているわけじゃない。「好きだから、歌いやすいから、誰でも知っているから」という理由ではなく、もっと別の。どうしてもこの曲を自分が歌いたい、歌い続けたい、という思いのようなもの。そういう思いが、聴いている人に伝わってきた時、それは、それでアリなんじゃないか、と。

ま、アリかナシかは、聴いている人が決めることですけど。

私は尾崎豊が好き。尾崎豊のカバー曲など、受け入れる余地など、今まで持ちあわせていなかったけど、上記理由により、ここに紹介する3曲は、私の中でアリ。「僕が僕であるために」、1983年のデビューアルバム、ラストの曲。

▼「僕が僕であるために」中村あゆみ(2009年、PV)


▼「僕が僕であるために」Mr.Children(2004年、ALBUM「BLUE 〜‎A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI」)


▼「僕が僕であるために」馬場俊英 テレビ東京系連続ドラマ「鈴木先生」(テレビ東京系列/毎週月曜よる10時放送)のEDテーマ

残念ながら紹介できるYoutube動画がないので、以下の記事を紹介。

尾崎豊の名曲を馬場俊英が人生初カバー! テレビ東京系ドラマ『鈴木先生』エンディング・テーマに決定!!:@niftyミュージック
この「僕が僕であるために」は、尾崎豊デビュー・アルバムのラストを飾っており、過去にMr.Childrenもカバーしている。須藤晃プロデュースにより、デビュー15年の歴史で初めてカバー曲にチャレンジした馬場俊英は、『これまで尾崎豊さんの音楽をちゃんと聴いたことがありませんでした。でも今回、プロデューサーの須藤晃さんに声を掛けていただき、初めてちゃんと尾崎さんの「僕が僕であるために」を聴き、とても感動しました。「僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない」。今の自分に響くメッセージでした。10代のこれから、たくさんのゲームを始めようとする若者が「勝ち続けなきゃならない」と書いた歌を、40代のもう何度も負け続けて来た男が「勝ち続けなきゃならない」と歌う。勝利とは何か。毎日の日々はどこに向かっているのか。これはいったい何のゲームなのか。聴いてくれる方が「大切なものはなにか」と考えるきっかけになったら嬉しいです』と語る。

須藤氏(尾崎の担当ディレクター)からのオファーだったのは知らなかった。(尾崎豊のファンの一人としては)尾崎の曲を、尾崎以外の人が歌うことについて少し抵抗があったことは事実。けど、この馬場俊英氏の曲は、このドラマの雰囲気に合っていると思うし、なによりこの記事を読み、彼が彼なりに尾崎の楽曲を理解しようと努力した結果から生まれた曲であることがわかった。彼が感じ、彼の中から生まれた「僕が僕であるために」だったんだ。そんな背景と、彼の歌う曲を何度か聴いているうちに、このカバー曲はアリなのかな、と思った。

では、最後に、オリジナル。

▼「僕が僕であるために」尾崎豊、1988年東京ドーム


彼が亡くなってからもうすぐ20年になる。

以上。
posted by Sakak at 22:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月06日

【ガジェット】スマートフォンの登場が何をもたらすのか?

自分のオヤジを見ていると、時代の変化についていけてない「年寄り世代の代表モデル」を見ているようで、イライラを通り越し、逆に興味深い。

■見た目でわからないものダラけ

iPhone/iPod touch/iPadなど、スマートフォンのたぐいを見て、オヤジが「それ何なの?携帯?パソコン?カメラ?ウオークマン?」と聞いてくる。今の時代、既存の専用装置にカテゴリー分けをする発想そのものが意味がない。

スマートフォンに代表されるマルチメディア系のデバイスは「何にでも化けるものダラけ」になってる。理由は簡単で、機能の実現がハードウエアからソフトウエアにシフトしたから。その説明がたぶん理解できない思う。

iPadだって、ネットワークにつなげられなければただの板。ネットワークからインストールしたアプリと、そのネットワーク上にあるサービスをコネクトすることで、変幻自在に化ける。アプリを入れた瞬間、音を奏で、遠方の家族とビデオ通話ができ、写真を共有したり、雑誌を読めたり。

年寄りにとっては、ハードウエアで実現していた時代の方がわかりやすかったんだろう。テレビやラジオは、放送を電波で受けて見る・聴く装置。ビデオは放送を録画する装置。携帯電話は、固定電話を持ち歩けるもので、メールをというおまけ付き、程度か。

つまり、目で見て「それが何かがわかるもの」だと安心するんだろうな

でも、ごめんな、オヤジ。もう「見た目でわからないものダラけ」なんだよ。

■スマートフォンの登場で先細るデバイス

(1)カーナビ
高価すぎるカーナビが今後も必要か疑問。道案内としては、確かに特化した機能で多少?助かることもあるだろうが、エンタメ装置としては、期待するものはもう何もない。8インチくらいのモニタとスマートフォン用のDockが車に装備されていれば、それでいい気がする。スマートフォンにはGPSもアプリもある。今いる場所も、行きたい場所を指し示すことも、お得なお店情報も、楽勝だ。

どこかの新型カーナビの宣伝文句が「Twitterと連携、iPhoneとつながる…」だってさ。いやいやいや、スマートフォンでやるからそんな機能いらんし。

(2)テレビという専用装置
テレビだって、同じ。「これからはインターネットテレビだ」などというふざけたテレビメーカーのCMを見たが、それはイコール、自分(テレビ)が「お役御免」と同義なんだけど気づいてない?

テレビ放送を構成する要素って以下3つだと思う。
1.番組(コンテンツ)
2.放送、電波(一方通行の配信手段、仕組み)
3.受信・再生装置(デバイス)
このうち、時代の変化についていけてない2と3は陳腐化していくと思う。

カーナビと同じで、40、50インチのモニタに、スマートフォンやタブレット用のDockがあれば、テレビ放送を受信することしかできない装置はいらないってこと。

いつまでたっても実現できないが、番組というコンテンツをネットワークにのせて流通させる仕組みに変わらないといけない。そうなれば、再生するデバイスは選ばない。スマートフォンでもタブレットでも。

テレビを作っているメーカーが今できることといったら、放送局とタッグを組んで「(スマートフォンでの視聴を阻止する為に)テレビ局に番組をネット配信させないこと」くらいだろうね。

■全ての家電がネットワークでつながる社会

これからは、全ての家電にネットワークインタフェースがつくのではないかな。消費電力をウオッチし、管理・制御する事もできる様になるだろうし。冷蔵庫や洗濯機、エアコンにもIPが付与されるんだろうね。そういう家電ネットワークの中で、スマートフォンは、リモコンであり、モニタであり、計算機であり、いくつもの役割を担う、もっとも身近なデバイスになるだろう。

そう考えると、スマートフォンの登場は革命的だと感じてる。

決して「携帯電話がタッチパネルで操作できるようになったもの」というカテゴリ分けではないのだよ。と、オヤジに言いたかったがやめといた。

以上。
posted by Sakak at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | ガジェット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月01日

【恋愛】文字だけで人を好きにはなれないと思う件

ネットで出会った男女が、文字のやりとりだけで恋愛をすることができるのか?という話。私の答えはNo。

■お互いに、頭の中を文字化していれば、相手を知ることが楽なのか?

ネットである記事を読んだ。

彼女は、ある男性と付き合い始めることになったそうだ。彼女も彼も、ネットを使って自分の思いを発信することに慣れているようだ。彼女曰く、「お互いに頭の中を文字にしてネットに置いてあるから、相手を知ることも交際をスタートさせることも楽」とのことだった。

良いとか悪いという話ではない。あっているとか間違っているとか、そんなことを言うつもりもない。ただ、私とは違うな、と感じた。

ネットに置いてある(不特定多数向けに書いた)情報は、恋愛相手が必要としている情報なのだろうか?私の答えはNo。ビジネスパートナーなら、いい。友達ならいい。でも、恋愛の相手では、話が全く別だろう、と私は考える。

少なくとも、私は恋愛相手が必要としている情報など、ネットに置いておくことはしないし、置けと言われても無理と言う。ネット上でないにしても、メールに書け、と言われても無理かも知れない。そもそも、デジタル情報にさえ、できないのではないかと思っているから。本当に大切な相手なら。

■自分が伝えるべきと思っていることと、相手が知りたいと思っていることは違う

映画「秒速5センチメートル」の中で「1000通のメールのやりとりをしても心は1センチくらいしか近づけませんでした」というセリフがある。そう、1000通のメールをやりとりしても、相手が必要としているものがそこに無ければ、心は1センチも近づけないのだ。1000通のメールのやりとりよりも、1度、会って得られることのほうが、二人がもっとはやく前に進むことができたに違いない。

けっきょく、自分がアウトプットしている情報(メールに書いた文字)は、自分都合でアウトプットしたい内容だけで構成されている。それが相手が知りたい情報とは限らないし、ましてや相手が感じたいことでもない

所詮、男なんて、女のことをたいしてわかってない。女だって、男のことをわかってない。スタートをそこに持っていくと、少し見えてくるものがある。

恋愛において、「これは伝えた方が良いだろう」と自分が思い込んでいることと、相手が「知りたい」と思っていることは、違うかも?と考えたほうがいい。

そう考えた時、文字だけで構成されている情報で人を好きになるなんて、かなり無謀なことのように思う。

■感じることしかできない

文字という媒体に自分の思いをアウトプットして、それを相手に送るという行為が「心を通わせている」と錯覚してしまうと、恋愛は難しいかもな、と思う。

恋愛って、そんな簡単なものではない、ということ。

所詮、相手のことなど、「感じる」ことしかできないのかな。だったら、相手に「文字(言葉)」を求めるのではなく、また、自分も相手に「文字(言葉)」を投げつけてばかりいないで、「感じる」ことに徹してみてはどうか?

そう、同じ場所で、同じ空気を吸って、同じ時間の流れを感じて。時には笑い、時には見つめ合い、時には悲しい顔をしながら「平気だよ」と言い、時にはそれを黙って抱きしめる。

それが恋愛なのではないかな?お互いに、自分が「楽しい」「時間を共有したい」と感じ続けること。それを計るのが、恋愛では?

そういう時に、必要以上の文字のやりとりっていらないんじゃないかな、と思う。

「自分のことを知ってもらう」「相手のことを知る」そういうことに気をとられてばかりでは、見たい景色が見えず、大切なものも失ってしまう。

恋愛は、経過。結婚は、結果。恋愛のうちは、経過を楽しんでほしいけどね。文字のやりとりばかりにこだわらず。

恋愛なんてカテゴリで久しぶりに書いて、肩が凝った。とうぶん書かないよ(笑)。

以上。
posted by Sakak at 23:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 恋愛 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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